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じいさまのマラソン歴

3月31日 晴
風が強いですが暖かく良い天気です。
3月も今日で終わり、いよいよ明日から値上げの4月です。
買いだめ忘れたのを買い物してきました。
夕方になって、今日は走りでなくてカメラを持って散歩へ。
竜神橋の下の釣り場に行ったら、カワセミが来て枝に止まったところを撮ることが出来ました。
次を待ち構えていたら、「何を狙っているんですか」と同年輩風の方がやってきて、カメラの話とかをしていました。
そしたらまた一人、同じような方が参入して来て、じいさまは二人の話の聞き役でした。
30分位いたのですが、寒くなってきたしで失礼して帰りましたが、まだ続きそうな雰囲気でした。
じいさま位の男性は皆さん、話し相手を欲しいのですよね。

本日から、じいさまのジョギングを続けてきたきっかけとか、今日までのことを2~3回に分けて書きますので、よかったら読んでください。

「じいさまのマラソン歴」
じいさまがジョギングを始めたのは、45歳の春今頃の季節でした。今から21年前です。
きっかけは、3月30日のブログに載せた、マラソンの師匠の影響でした。
当時師匠は、じいさまが勤務していた現場の元請の責任者で、直属の上司でした。
「今度の日曜日に○○ちゃん(じいさま)の近くを走るよ」と。
佐倉マラソンのフルを走ると言うのです。(この人がそれから21年間マラソンの師匠として付き合うことになります)
「すごいですね、応援に出ますよ。何か差し入れますよ」と言ったら、レモンにはちみつを割ったジュースがいいということなので、そのとおりに調合して応援に出ました。
当時のフルマラソンのコースはじいさまの自宅から200m位の所を通りました。
当日はあいにくの雨でした。指定された時間前に、当時小学4年生の娘に特製ジュースを持たせて傘をさして応援に出ました。
ボランティアのジュースだと思って手を出してくるランナーもいて、後ろに隠して傘をさしながら待ったのを覚えています。
指定時間より10分位遅れてやって来ました。美味しそうに飲み干してすこししゃべって「あと2?km(忘れました)走らんとイケン(山口県出身)」と言って、雨の中をまた走り出して行った後姿がカッコいいなあと思いました。

次の日曜日に、じいさまもすこし走ってみました。2km位です。

この続きは次回に書きます。

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買い物の帰り 通りの両側のピンクの桜がきれいでした

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ふるさと広場の桜 全体的には二部咲き位

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空を見上げたら、少しあやしいですよ

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昨日の余韻がまだ残っています 残念ながら雨でしたからフルマラソンは大変だったと思います

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早咲きの種類のチューリップは咲きそろいました

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菜の花も入れて風車を狙ってみたのですがチョットですね

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こちらの雲もあやしい

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きれいに撮れました

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こちらもジャスピンでした

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手前の方は67歳、富里で息子に譲った農業を手伝っているそうです。奥の方は68歳だそうで、まだ話が続きそうでした。

10km完走 孫1も3km完走

3月30日 雨
朝から雨でしたが、出かける頃になったら小止みになりました。
普段の行いがいいのでしょう。
フルマラソン出発の後に、孫1とママがエントリーの3kmレースのスタートでした。
じいさまはコンデジを持って、孫1とママを探しに。 やっと見つかりました。
孫1は少し緊張した顔をしていましたが、大丈夫そうで安心しました。
場所を写ってスタートして行くところを撮りたかったのですが、見つけることができなくて残念。
ゴールはしっかり見つけることが出来て、コンデジでも何とか撮れました。
タイムは昨日の予行演習より5分も早い21分台でした。
じいさまのタイムは予想より2分位早い1時間3分ジャストでした。
50代の頃は、このコースを52分台で走っていたのですが・・・走れる分だけヨシです。

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今日のじいさまのゼッケン

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佐倉アスリート倶楽部の紹介 手前から二人目が小出監督です

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フルマラソンのスタート 全員がグランドを出るまでに5分位かかるのでは?

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皆さん、元気で帰ってきてください

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孫1とママのスタート前 孫1は緊張ぎみでしたが笑顔で撮れています

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孫1とママが元気に帰って来ました よかった(*^_^*)

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3km走りきった顔 孫1はまた走りたいと言っていました(一度走るとまた出たくなるものです)

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じいさまの今日の記録 歳と照らせばいい方かな?

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終わってからマラソン仲間3人での懇親会 !美味しいです!(向かって右側の人がじいさまのマラソンの師匠です)

孫4人預かりで

3月29日 晴
風が強かったですが、暖かい一日でした。
朝一番で孫3と5を預かり、続いて1と4を預かりでした。2はママと幼稚園の先生の結婚式に出席だそうです。
明日は佐倉マラソンですが、天気が雨予報です。雨が降ると、着替えとか荷物の置き場が大変です。
孫1もママと3kmを走る予定なので、今日はストップウォッチを持って孫3も入れて3人で3kmを予行演習しました。
3kmのタイムは26分かかりましたが、孫3と話をしたりふざけたりして走っていたからで、もう少し縮まると思います。22分か23分くらいで走ってくれればと期待しています。
じいさまのほうは10kmを完走できればヨシです。

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小学校のグランドで 孫5の笑顔

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途中のキリンさんの椅子で、3と5です

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孫4も合流 豚の丸焼きだそうです

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孫5も真似をしましたが、まだ無理でした

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これから3kmを走ります 準備体操

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孫3はは前半遅れました

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一肌脱いでタンクトップになってから頑張りました

春爛漫です

3月28日 晴
消費税が4月1日から上がります。ささやかな抵抗ですが、今日は一応買いだめをしてきました。
シャンプー、リンス、石鹸類、トイレットペーパーとティッシュとか思いつくのをメモしてホームセンターを回ってきました。夕方にガソリンと、灯油を満タンにして終了。
午後3時頃にジョギングへ。明後日のレースに備えて軽めの調教です。
明後日のレース日は雨の予報です。雨が降ると荷物の置き場とかに困ります。曇ってもいいから降らないで欲しいのですがこればっかりは・・・。

ふるさと広場の周辺は、ちょっと見ないうちに色々な花が咲き出していました。桜は明後日のレースに間に合うか微妙ですね。明日の気温次第でしょう。

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春ですね ここの花壇はいつもきれいな花を見せてくれます

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亀も冬眠から覚めました

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明後日のマラソン大会の準備はほぼ出来上がったみたいですね

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この前は気がつかなかったのですが

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開花している桜も

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フルマラソンコース 咲くといいですね

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風車の工事は終わったみたいです 塗装したのはプロペラ部分だけ 予算がないのでしょうか

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チューリップはまだこの程度 昨日寒かったですからね

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こんなきれいなのも・・一輪だけですが

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釣り場にも釣り人が戻って来ましたが全然魚がいないみたいです

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春は黄色い花が多いそうですが

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白い花も咲いています

気の早いチューリップが

3月26日 曇後雨
義兄(正虎)夫妻が朝に帰って、妻も仕事に出かけて、急に静かになってポカーンです。

今度の日曜日に10km走るのに、ここのところ数日走っていなくて今日はと思って、昼頃出発しました。
体は重めでした。(7kmの走り)

竜神橋の下の釣り場は今日も釣り人はいません。代わりにカワセミがいました。
一眼だったらバッチリの距離で、二度ほどジャンプした後、毛ずくろいしていました。
とりあえずコンデジで撮って来ましたが、ジョギングに一眼は持って行けません。欲しいチャンスでした。
また、ふるさと広場では種類によるのでしょうが、気の早いチューリップが咲き始めていました。
日曜日のフルマラソンのコースになっているので、28km地点の苦しい時でしょうが、癒してくれることでしょう。

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一眼だったらバッチリの距離にカワセミが、ジャンプ2回の後毛ずくろいしていました

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コンデジの解像度とズームではここまでです

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菜の花も咲きだしました

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一眼でもう少しきれいに撮りたい

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この畝のチューリップは気が早い

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畝の日光が多く当たる側が一列に行儀よく咲いています

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今度の日曜日はフルマラソンランナーを癒してくれることでしょう。

老人会初等科ミニ旅行

3月25日 晴
老人会初等科ミニ旅行から帰って来ました。
正虎氏夫妻、Y船長とじいさま夫婦の5人旅で筑波山への一泊旅行でした。
にぎやかな旅行で、車の中でもしゃべりっぱなしで退屈しませんでした。
Y船長は夕方、弟さんがいる埼玉へ移動しました。
正虎夫妻は明日帰ります。お疲れ様でした。また会いましょう。

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中腹のホテルに着きました。スカイツリーとかも見えるそうですが、霞がかかって見えません

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なぜ口を曲げるのでしょうか

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夜になっても東京方面の明かりが見えません

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老人会初等科、それぞれゆっくり石段を

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筑波山神社 初めて来ましたが大きいいです

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ケーブルカーで山頂へ

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山頂へ着きましたが今日も霞で視界が悪くて残念

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珍しいので入ってみました

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赤いガマ 本当にいました

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正虎氏はじいさまの家に着いたら早速ブログを書いていました

正虎氏 Y船長来る

3月24日 晴
昨日の昼過ぎに、正虎氏とY船長が来ました。
久しぶりの懇親会で二日酔いぎみです。
これから筑波山へ出かけて一泊して来ます。

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志津の河津桜を見てきました。正虎&Y船長

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満開

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久しぶりの懇親会です

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じいさまの部屋で

追加「団塊の世代のこれから」

3月21日 晴
春分の日なのに、東北では大雪だそうで、宮古では41cmの積雪だそうです。
佐倉も北西の風が強かったですが、午前中にジョギングへ出発。佐倉マラソン一週間前で、2kmのタイムを測ってみました。13分33秒でした。向かい風だったのですが、再来週の本番では10kmを65分前後のタイムですかね。
無理しないで完走します。

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マラソン大会近し、フルマラソンはここから12,195kmも走るのですね。30kmからが辛いそうです。

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風が強くて、祭日なのに誰も座っていません

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印旛沼もこの風波

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道端の草花も多くなってきましたが、風が冷たくて

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妻のリクエストで、すのこを利用して棚を作ってペンキを塗りました

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穴が小さくてやり直し。残っていた材料で補強(おっつけ仕事です)

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もう一度塗り直し

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洗濯機の上の棚になって、おっつけ仕事完成。これも遠目で見てください

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夕方、買い物に行ったら空があやしかったですよ



昨日で最終回だったのですが、じいさまが今感じている「団塊の世代」の今とこれからのことは書いても差し支え無いかなと、書きましたので読んでください。

「団塊の世代」の今とこれから(じいさまの場合)
来年の3月で、団塊の世代の最後がが65歳となる。
殆どが会社から放り出されて、平日の街はじいさま連中で溢れるかえるのではないだろうか。
今でもスーパヘーへ買い物に行っても、図書館へ行っても、ジョギングへ行っても、一目で暇つぶしと分かるじいさま連中がたくさん溢れている。
もうすぐだが、この3月末で会社から放り出されるじいさま連中も多いだろうし、来年3月も同様である。
どんな世の中になるのか憂鬱になってくる。国の年金支出も増えるだろう。今の年金支給制度がいつまで続くのかと思うと心配になってくる。
でも、団塊世代のサラリーマンは就職したときから定年まで、会社と折半でではあるが払い続けてきた人達が殆どだ。
威張って貰えるはずなのだが、人数が多すぎて、これからも大丈夫かなと心配になってくるのはじいさまだけだろうか。
今の70歳位までのじいさま連中は元気だ。働く気になれば、職種と作業内容によるだろうが仕事も出来るだろう。
そんな仕事が簡単に見つからないのと、厚生年金で何とか生活していけるから、積極的に就職活動もしないのではないだろうか。
曽野綾子だったと思うが、テレビの対談番組で、「今のお年寄りは?」の質問に「甘えている。お爺さんは芝刈りに、おばあさんは洗濯に行かなくちゃ」と答えていたが、なるほどと共感した。
まあ心配してもどうにもならないから、つつましく、自分の収入にあった趣味を持って、かといってしみったれないで、残された人生を生きていくのがいいのかなと思う昨今である。

「団塊の世代」最終回

3月20日 雨
朝から冷たい雨が降って、また冬眠しています。



「団塊の世代」のタイトルとはかけ離れて、思い出話的になってしまいましたことをお詫びいたします。

「団塊の世代 18(最終回)」
電気屋時代 (じいさまの場合)

電気屋さんへ就職したのが19歳の8月31日だった。
30日に宮古を出発して、夜行列車で朝早く上野へ着く。当時の上京手段はこれが一般的だった。

就職した電気屋さんは、本社が神田淡路町にあって、三多摩に7店舗の支店を展開している、店は小規模だったが安売り量販店の走りだった。
配属は、同郷出身者が店長をしている所沢店だった。

倉庫兼社長の自宅が武蔵野市にあって、そこに毎朝車で、各店から注文品とか前日の売上金を持ち寄るシステムだった。
武蔵野市の倉庫の近くに6畳一間のアパートを寮として借りてくれたので、パブリカトラックがじいさま専用の公私の自家用車となり便利だった。朝倉庫に寄って所沢までを往復する毎日だった。
仕事は、店番と配達、修理と日報の記入となんでもだった。特に好きだったのは出張修理で、その頃は真空管白黒テレビの絶頂期で、真空管の故障が殆どでテスターがあれば大体直せた。
食事までご馳走してくれるお客さんもいた。地方出身者でかわいそうと思ったのだろうか。それに今でもだが車の運転を好きだった。

三億円事件はその頃だった。東村山方面へ配達か何かで出かけたときに雨の中をパトカーが、サイレンを鳴らして何台も走っていたのを記憶している。
事件後も何度か検問に引っかかった。いつもジュラルミンの大きな修理バックを積んでいたために必ず開けさられて説明までさせられた。

2年ほど続いたころだった。新しい支店を一店開店した後だった。その頃ライバル店が出現して、そちらは店舗規模も格段に大型だった。何となくいやな噂も耳に入ってきた。

ある日、店長は外出か何かで不在で、一人で店番をしている時だった。数人が店に入ってきて紙きれをたくさん持って「差し押さえです」という。本社に電話したら「貼らせてください」だった。
商品に紙をペタペタ{差押}と書いた紙を張って「紙を貼った商品は売ってはなりません」だった。通る人はじろじろ見ていくし、恥ずかしいやら心細いやら。21か22歳位で差押の現場に立ち会った者はあまりいないだろう。
それからも、会社の名称を変えて店舗を少なくして営業したが所沢店は残った。じいさまも嫌々ながら最後のほうまで勤めてた。

あるときに、その会社を辞めて通信関係の下請けをやっていた人が来て、「今度大阪で仕事があるから来ないか」の勧めに乗ってまた転職。

この仕事は会社は何回か変わりましたが、じいさまのこれまでの糧の仕事となりました。ここからの続きは、リタイアしてからまだ日が浅いので、同僚とか関係者が読んだときに、会社を特定出来たりして迷惑がかかるかも知れないのでこれで終了します。

長い間読んでいただきありがとうございました。次の特集はまだ考えてませんが何かを見つけて書こうとは思っています。

電気店
電気屋時代 武蔵野市の倉庫で朝の積み込み風景

慰安旅行
慰安旅行になぜ蝶ネクタイなんでしょうね

襖の張替え

3月19日 晴後曇
今度の日曜日、正虎氏夫妻とY船長が来ます。義姉のクラス会が土曜日あるそうでそのついでです。
筑波山一泊で登山して来ます。楽しみです。
それでという訳ではないのですが、今日は2階の部屋の麩の張替えをやりました。
簡単な手抜きの枠を外さないで貼り付けるほうほうです。ネットから印刷してやってみました。
15年位前に経験があるのですが、印刷して良かったです。細かいところは忘れています。
出来栄えは?正虎氏には馬鹿にされるかも知れませんが、取り替える前よりは格段にいいと思います。
(細かく見たらダメ。遠目で見ると立派ですよ)

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昨日、まご3、5を預かりました。マウスを操る孫5、まだ2歳児です。

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この真剣な顔


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さてこれから始めます。全部で7枚です

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糊付け作業 ムラのないようにしないと剥がれてきます

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遠目はまあまあです



「団塊の世代 17
就職の時(じいさまの場合)

高校の遊びの時代も終わって、ついに就職のときが来る。3年間遊んだクラスメイト達とも別れの時だ。

入社は3月22日頃だったと記憶している。新入社員は十数人で大卒は居なかった。工業高校と水産高校出身だったが、製罐会社が何で水産高校なのだろうと不思議だった。
全員が地方出身で、女子も2人いた。男子寮は田園調布でそこから電車を乗り継いで青物横丁までの通勤だった。
数日の研修が終わって、先ず配属されたのは印刷されたブリキをプレスしてお茶の缶蓋等に加工する部署だった。
驚いたのは、先輩従業員の何人かが指が欠けている。不注意で指を挟まれた人達であった。この仕事は嫌だというのが第一印象だった。それでも「筋がいい」とか言われて得意になっていたものだ。

1ヶ月も過ぎた頃だったろうか。春闘で会社の労働組合がストライキを強行した。朝出勤したら、会社の前で旗とか横断幕を張って通せんぼしている。新入社員はまだ非組合員であったから会社に入れない。
人事担当の管理職が来て、「新入社員は寮で待機するように」とのことで寮へ引き返した。
次の日からも同じことの繰り返しだった。寮から多摩川に遊びに通った。1週間くらい続いただろうか。人事担当者が寮に来て、会社をつぶすと言う。
後で聞いた話だが、左翼が入り込んで収集の見込みが無かったそうだ。入社2ヶ月で倒産だった。

しかし、新入社員は会社の責任もあるので、全員無条件で親会社へ入社させてくれるとのことだった。高校の1,2番の成績じゃないと推薦してもらえない会社だった。
五反田だったか大崎だったか忘れたが、寮はそのままで、自動的に入社だったが、入社式とかは無かったと思う。
仕事はフイルムの印刷具合のチェックで、先輩に付いて機械で回っているフイルムの印刷具合を見ている仕事だった。回ってるのに目を合わせて顔と一緒に上下させるが、じいさまには殆ど判別できなかった。
もう一つ嫌だったのが、昼食時にトレイを持って長い列を並ぶことだった。「俺は大きな工場には向いていない」。多分、実家にも辞めたいと漏らしたのだろう。

「東京で大きな電気屋さんで偉くなっている人がいるからどうだ」という話をもらった。ただ運転免許が必要だそうで、「これは帰れる」と喜んで宮古に帰って教習所に通った。楽しい1ヶ月半だった。

そして8月のの末にまた上京するが、長くなりそうなので続きは次回です。

良い天気で

3月17日 月
朝から快晴です。昼前に義兄(正虎)から荷物が届きました。
その中に「月刊みやこわが町」別冊版が添えてありました。
震災3年の記念で出したのでしょうが、紙質も良く中身の写真も充実しています。
大切に保存します。高価な物をありがとうございました。
夕方になってからジョギングへ。やっと半袖短パンで走れるようになりました。
今日は6kmの走り、雲は無しでした。

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1500円もするのにありがとうございました

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これが夕暮れどきの鍬ケ崎だそうです(月山からですね)海に近い部分は壊滅しました


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桜の蕾はまだ固いです 今年は遅いかも

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ベンチの後方は全部チューリップ畑です(販売用)

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塗装はまだです いつ足場が外れるのでしょう

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キラキラ光ってきれいだったのですが、写真にしたらたいしたことないですね ごめんなさい。



「団塊の世代 16」

高校時代~就職(じいさまの場合)
その頃の就職活動というか、就職が決まるのは大体高校3年生の秋頃だった。

コネとか自分で決めている者以外は、就職担当の先生が対応して相談に乗ってくれた、というより成績によって割り振ってくれた。
じいさまは中学の頃から、就職は東京に行くんだ(行かないといけないんだ)と、思い込んでいたような気がするので必然的に東京方面になる。
地元に残っていたら違った人生を歩んでいただろう。

割り振って貰った会社は、東京の某大手製罐会社の子会社で、2百人位の従業員が働く製罐会社だった。
学校の運動会の日が就職試験で、上京したのでよく覚えている。
会社は品川青物横丁から海側のモノレールの見えるところだった。試験を受けながらモノレールをボーッと見ていた。
同じ高校から3人が受けて全員合格だったが、問題とか面接で何を聞かれたかは覚えていない。

就職が決まってから、冬休みにかけて、現場実習ということで、東京の某商会に割り振られて、アメ横で新巻鮭とか昆布、さきいか等を売った。
最初は声が出なくて先輩に怒られたが3日もすると慣れたもので、揉みてをしながら叩き売っていた。人間はすぐに慣れるものだと思った。鮮度が落ちて身が崩れた新巻鮭を塩でかためて安くではあったが、売ったときは抵抗があった。
寮が王子で、片道15分ほどの通勤も経験した。タバコを吸いたくなると、上野駅まで散歩した。

案外こんな商売にも向いているのかなと思ったが、就職は決まっているしー。暮れの31日まで働いて元旦に宮古に帰った。
そんな訳で3月に正式に就職するときは、ある程度東京を経験していたので感動はあまりなかったような気がする。

今日は写真無しで。次回には就職したら会社がすぐ倒産した頃を書いて「団塊の世代」シリーズを終わりたいと思います。

孫2、3が卒園です

3月16日 晴
昨日は孫3、今日は孫2の卒園式でした。
孫3のほうは玄関で、孫2のほうは幼稚園まで行って写真を撮ってきました。
しかしせっかく行って肝心なところで失敗しました。卒園証書を貰うときに動画で撮ったのですが、最初の10秒位しか撮れていなくて大失敗で面目ありません。それでも息子が撮っていたというので一安心。チェック不足です。

終わってから志津の公園の河津桜を見に行きましたが、寒かったせいか2部咲きくらいです。
次の終末頃が満開となるのではないでしょうか。

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昨日の孫3の晴れ姿

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後ろも オッシャレー

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今日の孫2 卒園証書を貰うまでは緊張していたのですが、その後はリラックス

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幼稚園最後の合唱になるのでしょうか

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志津の公園の河津桜は2部咲きくらい 今度の週末まで強風が吹かなければいいのですが

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今日はこの程度です



「団塊の世代 15」
高校時代 遊びのとき(じいさまの場合)
高校も2年生になると、上級生のシゴキも無くなって、自由な学校生活(家庭生活も)になった。
部活にも殆ど顔を出さなくなって「早く帰ろう部」と呼ばれていて、授業が終わると帰るのはいつも10番目の早さに入っていたと思う(正虎氏なぞは野球部で3年生の夏までは放課後に遊んだことがなかった)。

帰って何をやっていたかと言われれば、これは子供、孫達の手前書きたくなかったが正直に書かないとと思ったので書くが、よくパチンコ屋に通っていた。
家から5,6分のところにパチンコ屋さんがあって、よく通った。
今のパチンコと違って、玉を左指で1個づつ押し込んで、右の親指でハンドルを打つ文字通りのパチンコである。玉1個当たりのレートは忘れたがそんなに高くなかったと思う。現金換金はその頃もあった。
じいさまは割りと上手で、結構プラスだったと思う。出る台もなぜか店の店長さんがこっそり教えてくれて、お巡りさんの巡回があるといち速く知らせてくれた。

休みの日は、友人の家のトバタ船(発動機が設置されている大きめの漁船で快適)やサッパ舟(定員は4人位で、船外機が付いているのもあった)で浄土ヶ浜方面にクルージングしたものだ。
今ほど密猟に対して厳しくなかったから、アワビとかウニを密猟して船の上で食べた味は忘れられない。

長期休暇にはアルバイトもよくやった。たしか1日働いて数百円だったと思う。(パチンコの資金とか、アンプの部品を買ったのかなー?)
遊び三昧の日々でいよいよ3年生の秋になると、いやでも就職の話となるが、次回にまわします。

ギター
こんな時代もありました

サッパ船
これがサッパ船 密猟中 今だったら即逮捕です

トバタ
トバタでさっぱを引いて遊びに(密猟に?)出港です

トロール実習
これは正式なトロール漁の乗船実習です

宮古丸
サンマ漁の乗船実習

バイク
125CCのポンコツ 坂道を登るとオーバーヒートしました。スーパーカブのほうが強かったです

浄土ヶ浜で
初めて女性が一緒に 中央真ん中が正虎氏です いい体でいい男ですね

雀の焼き鳥
これ何をやっていると思いますか?空気銃で撃ち落とした雀を焼いています 皿には醤油が入っています

蛸の浜で
水泳監視のアルバイトのとき

「大震災から3年 最終」

3月14日 曇時々雨
一時の寒さは和らぎましたが朝からお日様が顔を出さず寒いです。
それでも昼過ぎに7km走って来て気分転換できました。

3月10日から書いてきました「震災から3年」は今日で終わります。明日からは「団塊の世代」の続きを書きますのでよかったら読んでください。

「震災から3年 最終」
田老に住んでいた一番上の姉も、家が無くなったことは覚悟はしたようだった。

まずは何とかして行ってみようということになって田老に向かって出発。情報では、田老の橋の手前までは車で行けるらしい。
田老までは15kmくらいの距離だが、宮古市内を抜ければ海の側を通らない国道45号線は田老の手前までは順調で、情報通り橋の手前で左折させられて空いている所に駐車して、そこからは徒歩で。

町内の国道は自衛隊が復旧中で、スーパー堤防の上を歩いて行くことに。この堤防を超えた津波、誰も考えられなかったろう。
1kmちょっと歩いて、本来だったら姉のの家があった辺りになんにもない。30mくらい離れたところに2階部分だけが残っていたのを姉が見つけた。
洗濯機状態じゃなくて、木の葉状態で移動したのだろう。姉も、周りの家も同じ状態だからか落ち込んでいなかったのでホッとした。

この震災でラッキーだったのは、震災の当日にガソリンを満タンにしたために、スタンドに並ばなくて済んだこと。

アンラッキーだったのは、カメラ以外の荷物と財布を実家に置いて避難したために着の身着のままになって、運転免許証とかカード類の再発行の手続きが大変だったこと。
交番へ届けたら、仮免許証は発行しないということで「事故だけは起こさないでください」だった。お金も ウン万円入っていた(正虎氏とかにも協力を得て探したが今だに行方不明)。

震災後やっていること
ガソリンは目盛が半分になったら給油するようにしている。
ティッシュ、トイレットペーパー、灯油、飲料水は在庫を維持。
電気を使わない石油ストーブを購入して押入れに入れてある。

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目に飛び込んできたのが、三陸鉄道の線路の上に屋根が

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スーパー堤防 ここを超えて町の中へ

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堤防の内側ですよ どれほどの津波だったのでしょう

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ここも「なにもかにも」です

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姉の上の2階部分が見つかりました

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多くの家が引き波で堤防にぶつかって着地したようです

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これは宮古駅近くの閉伊川のJR山田線の半分にちぎれた鉄橋 今も手付かずです

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この○印は、家の中に人が居ないのをチェック済の印だそうです

「震災次の日」 昼~夜

3月13日 雨
雨が降らないうちに走って来ようと思ってたら天気予報より早く降り出して中止です。
ネットを見回したり読書をしたりとマッタリです。
午後になって、妻は近所の何人かでお茶のみ懇親会をやっています。
一人がお孫さんを連れて来て、ついでに孫4も呼んでじいさまの部屋でビデオ鑑賞しているところです。
風も強いし雲も早くて台風みたいです。最近の気候は極端すぎますね。

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昨日、孫4を送って行ったら孫1が出迎え 土曜日に走ろうねと約束

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昨日の夕方もちょっとあやしい雲が

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当日の朝5時頃に地震で目が覚めました 気をつけましょう


今日は、震災次の日に正虎宅から2女の家に移って兄弟の共同生活が始まった様子です。17日だったか東京行きのバスが運行するまでの共同生活でした。

「震災次の日-1
大人8人の共同生活が始まった。先ず必需品の調達から。費用は全員でお金を出し合って、共通費としてそこからなんでも遠慮しないで使うこととした。
先ずは水の調達と、ラジオとか一人一人に懐中電灯の購入(夜トイレに行く時必要)と食料だ。ローソクは在庫があった。
大人がおおぜいいるとこんな時は早い。得意な分野で分担して割とスムーズだった。じいさまは2番目の姉と妹と3人で給水所へ水汲みへ行ったが、最初の方だったので1人2個、計6個の水袋まで支給されるサービスまで受けた。
また、2女の家の辺りは全く地震と津波の被害はなく車も使えた。

電気屋さんは入場制限をしていた。ラジオも最後の2個か3個でへんな形のだったが買えた。懐中電灯とか携帯の電池の充電器は既に売れ切れで、幸運にも100円ショップでミニの懐中電灯が数個手に入った。
じいさまは、着替えや洗面道具が入ったバッグと、免許証とか各種カードが入った財布まで実家に置いたまま避難したので着の身着のままだった。(カメラは車に積みっぱなしだったので助かった)

近くに「洋服の青山」があったので入ってみた。ロウソクの灯りの中で下着とかパジャマになるのを買って精算したら、一目で被災者と分かったのだろう。電卓を叩きながらすごいおまけをしてくれて、最後には端数も引いてくれた。世の中捨てたものじゃないと感謝だった。

夕方近くに、歩いて宮古の中心地を見に出かけた。末広町から北の方NTTまで行ってみたがすごい惨状だった。(感想は写真で)

夜はローソクの灯りで食事、晩酌は義兄としっかり飲んだ。被災者らしくない生活だった。

その頃じいさまは退職寸前の時で、会社の同僚とか上司が心配してくれてメールが「避難所生活は大変でしょう、寒くないですか」的なのが何通かきたが「酒を飲んで盛り上がっているよ」とも言えず困ったものだ。

そんな訳で、正虎氏や2番目の姉夫婦のおかげで避難所生活を味わうこともなく、被災者らしくない生活をしていました。
その夜の8時過ぎだったろうか。電気が通じた。電灯とテレビが点いて皆で万歳した。初めて津波の映像を見た。やっぱり音声だけのとは違う。改めて被害の大きさを知った。(2番目姉の住む地区は13日の昼には水道も出た)

可哀想なのは一番上の姉でした。姉は壊滅した田老町に一人暮らしをしていたのですが、法事で実家に来ていて、皆と一緒に逃げることができました。
田老町の犠牲者が多かったのは、有名な万里の長城の防波堤があったために「この堤防を超えて来るはずがない」と多くの人が過信していたからだとも聞いています。

徐々に田老町の情報が入ってきて「田老も全滅らしい」。それでも姉は次の日に壊滅した町、我が家を見るまでは、「堤防があるから家は流されていない」と希望を持っていたようです。

3月13日に田老町へ行きますが、明日書きます。

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市内のスーパー 真っ暗な中で営業していました

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宮古の中心街もこの有様

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鍬が崎ほどじゃないですが

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めちゃくちゃ

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通行人もほとんど無言

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消防車も救助が必要

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市役所脇 車が重なって(こんな光景はあっちこっちでありました)

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すでに自衛隊が到着していました

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先ず幹線ルートを通すようです。それにしてもすごい機動力です。自衛隊はこの国には必要だと思います 車の中でお弁当を食べて眠って、頭が下がります(警察官はホテル住まいです)

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この猫、津波のときはどうしていたのでしょうね

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上町の方山からの鍬が崎

明日は田老町の写真を中心に掲載します

震災!翌朝の写真

3月12日 晴
久しぶりで暖かい一日です。
孫1と走る約束だったのですが、今朝ママからメールで体調不良で今日は辞めるとのこと。きっと不安になったのでしょうう。
その代わりじゃないのですが午後から孫4を預かりで、今となりでビデオを見ています。
孫4はインドア派で、外に行こうと誘っても「イヤダ」です。ぬりえをやったあとはビデオ観賞です。
4時頃に送って行くので、その後に走ってくる予定です。


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インドア派の孫4は先ずぬりえです

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じいさまとにらめっこ



今日は震災の翌朝の写真を掲載します。出したくない写真もありましたが3年経ったから、風化させないためにもいいかなと思って出すことにしました。

「震災次の日」朝早く目が覚めた。正虎氏も同じくで、皆が寝ている部屋を覗いたらまだ寝ている。
「写真を撮りに行こうか」ということになって、蛸の浜の橋の上を過ぎたところまで車で、後は徒歩で歩いてみた。
蛸の浜を見てびっくりした。あるはずの防波堤が無い。コンクリートの塊がブロックとなって移動している。蛸の浜町に下りたらお寺を少し下った辺りまでがれきの山が押し寄せて通行不能。
熊野神社側の山側を通って小学校へ。プールから何人かがバケツで水を汲んでいる。トイレに使う水だろう。
熊野神社の石段のところまでがれきが押し寄せていた。人がたかっているところがあって、遺体だとすぐに分かった。
引き返して今度は角力浜の方へ。ここは坂の途中までがれきが押し寄せていた。龍神様の方から海沿いに何とか実家のあった鍬ケ崎方面へ行くことができた。
実家は隣の家と場所が入れ替わって、2階部分は残っていた。洗濯機状態との表現がよく分かった。
どこを見ても「なにもかにも」だった。
雅虎宅に帰ったら、既に姉妹達は2番目の姉宅へ歩いて出た後だった。じいさまもあとを追って車で山道を遠回りして姉宅へ。それから数日の間4姉妹とこの家のご主人(義兄)と娘さんとじいさまの共同生活が始まったが、長くなるので明日に回します。

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翌朝、最初に撮ったのがこれです。蛸の浜防波堤のコンクリートの塊が砂浜の方に押し出されて(木の枝のかげ)

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こんなに高い場所にあったお墓も倒されて

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蛸の浜町 ここから先へは進めません

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これが次の日の朝のじいさまの故郷です

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「なにもかにも」です

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小学校のプール バケツで水を汲む人がおおぜいいました

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ご遺体が発見されたようです

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熊野神社の石段 ここまで津波が

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誰も無表情 呆然

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海の水が青くきれいなのが不思議でした 赤灯台が見えるはずなのですがありません

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日立浜もこの惨状

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実家の2階部分だけが残っています となりが入れ替わっています

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港町交番 ここのおまわりさん何人か殉職したそうです

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旧魚市場 屋根の上に船が

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近所の銭湯 小さい頃から通いました それまでも実家に帰ると必ず行っていました 震災時は開いている時間ですが客は居たのですかね

以上が震災翌朝にじいさまと正虎氏でがれきをかき分けて撮ってきた写真です。見たくない写真もありますが今回は掲載しました。


震災記念日

3月11日 晴
今日もあいかわず冷え込んで、昨日ほどではないですが冷たい風が強いです。
朝から各テレビ番組は震災番組一色です。
昼前にジョギングへ出かけて来ましたが、風が強くて目的地の前で引き返してきました 走り7km。
明日は孫1と走る予定ですが、暖かくなることを期待します。

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田んぼはいつの間にか掘り起こしてありました。春なんですけどねー 寒いです

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風車の塗装工事は全然進んでいません マラソン大会までにはきれいになるでしょうが

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ヨモギを採っているそうです

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震災の傷跡がまだ残っていました 震災後はサイクリング道路はしばらく通行止めでした



今日はじいさまが宮古で体験した震災当日を書きます。写真はありません。当日は撮る余裕などなかったのでしょう。

「大震災から3年」 当日
地震があったのは母親の49日を終えて、皆で実家に戻って歓談している時だった。
いきなり大きくグラグラだった。食器棚の閉まっていないところからコップが落ちて割れる音、大半が外にでた。近所の古い蔵の土壁が落ちている最中だった。
「!津波が来る!」実家出身の者は全員が思ったことだろう。チリ地震津波のときは床下までチョロチョロと来た。小さい頃は大きめの地震があると近くの高台にランドセルを背負って逃げたものだ。

車を実家に止めていたから「海水に濡らすのはいやだな」。と思って兄弟を乗れるだけ乗せて出発。その時は「夕方には帰れるだろう」誰もがそう思っていたと思う。

「義兄(正虎)宅でお茶をご馳走になって、落ち着くまで避難していようか」とじいさまの発案で政虎宅へ。幸いに正虎氏は在宅で快く6人の兄弟達を迎えてくれた。
車を駐車しているときに、車のテレビで衝撃的な津波の映像が。なあどが海水に浸かってたくさんの車が流されている映像だった。「実家も終わった」と思った。
その後の情報は停電のためにラジオだけになってしまった。

夕方になって、じいさま一人で歩いて実家の町が見えるところまで行ったが愕然とした。グチャグチャと言う表現が適切かも知れない。がれきの山で津波が来たところから先へは行けない。
実家の二階の屋根部分だけは見えた。会う人も皆青ざめていた。
後で姪から聞いたのだが、高台から見ていたら、家が船みたいに揉まれて洗濯機状態だったと言っていた。

その夜は正虎宅でお世話になることにした。義姉(奥様)も勤め先から帰れなかったが、正虎氏がご飯をガスで炊いてくれたりして夕御飯にもありつけた。
男性3人は酒まで飲んだ。あの夜に被災地で酒を飲んでいた人はいるだろうか。

携帯はじいさまのauがたまに繋がって、佐倉の自宅も無事なことが分かって安心した。(auの携帯には助かった。姉妹の連絡用にもなった)

助かったのは正虎宅の水道が次の朝まで止まらなかった。女性が多いのでトイレは非常に助かった。(高台地区なので、水圧が低いために一度大きなタンクに貯めるシステムだそうで、朝まで空にならなかったのだ)
避難所に避難することなく、布団も敷いてもらって暖かく兄弟全員が朝まで寝れたのでした。


「震災次の日」は明日書きます

シクラメンがここまで咲きそろいました

3月10日 晴
今日は昨日より風が強くて寒いです。佐倉市の気温6°Cです
ジョギングは諦めました。
じいさまが育てているシクラメンが咲きそろいました。初めて植え替えをして、2日に1度水をやっています。


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きれいでしょう


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葉っぱもパリパリしてハリがあります



今日から3日間ぐらいの予定で震災特集で 震災前日から震災後、佐倉に帰って来るまでを書きますのでよかったら読んで下さい。

「大震災から3年」 津波前日
3年前の今日3月10日木曜日の朝、母親の49日の前日で、近所に住む姉と宇都宮住む妹を拾って車で宮古へ向かった。
仙台手前あたりで天気が悪くなってきて、東北道の標識は「一ノ関方面滑り止め必要」の文字だった。チェーンを装着するのも面倒だし(というより積んであるチェーンは装着したことがない)時間も早いから沿岸の国道45号線を行こう。ということになって東北道から東に進路を替えた。
石巻を過ぎたところまで高速道路が続いていて快調だった。高速道路を出されて45号線へ、その辺が津波で有名になった南三陸町だった。まさかそこを次の日に津波が襲うとは。
もし、一日ずれていたら、2時46分頃は国道45号線の釜石辺りを走っていた時間である。命だってどうなっていたかと思うとぞっとする。
石巻市内は通らなかったが、気仙沼、陸前高田、大船渡、釜石、大槌、山田を通って宮古まで、破壊される前の最後の日の町々を眺めながら北上してきたことになる。ある意味では貴重な思い出である。
津波前日は、じいさまは兄貴夫婦が住む実家へ、姉と妹は宮古市内の山側に住む姉の家に泊まった。次の日に壊滅した田老町に住む一番上の姉も実家に泊まりに来ていた。泊まった実家は次の日の津波で木っ端微塵になったのである。この夜が実家の見納めでもあった。
兄貴も酒が飲めなくなっていたので一人でちびちびやりながら夕食をご馳走になって早めに布団に入った。前ぶれとか虫の知らせとかは特に感じなかった。後で悔やんだのは、仏壇に向かってちゃんと手を掌わせておけばよかったと・

津波当日の話は明日の震災記念日に書きますので読んでください。

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破壊される前の蛸の浜です 防波堤でよく釣りをしました


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遊歩道も全区間通れて 震災で地盤沈下して景観も変わりました


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震災前の魚市場です 右奥に見えている家々も無くなったのです


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見えている静かな町が一瞬にして破壊されました


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実家在りし日のお盆の風景 お墓参りを済ませた後の朝ごはんで朝からビール付きのご馳走です

1日中マッタり生活

3月9日 晴
相変わらず風が冷たく昼間も10°Cまで届きません。
今日は走る気も無くマッタリを決め込みました。夕方近くになって、妻と車で図書館に行ったのが唯一の動きだったでしょうか。志津の河津桜が開花しそうでした。今週末あたりに見頃になるのではないでしょうか。
昼頃になって、孫1、2とママが寄りました。ふるさと広場まで走ってきたそうです。片道3kmはあります。
ウェアーが3人とも格好良かったのですが、写真を撮るのを忘れました。
孫1とママが30日のマラソン大会に3kmの親子競争にエントリーしているのでそろそろ本気を出しての練習でしょう。
今週の水曜日に学校が終わってから、孫1とじいさまで走る約束をしました。楽しみです。




「団塊の世代 14」 高校時代 (じいさまの場合)
「テスト」
高校時代、人生で一番楽しく面白おかしかったかも知れない。職業高校で大学進学は最初から考えていなかったし、とにかく楽しく遊んだ記憶しかない。
部活も運動部では一番楽だった?漕艇部(カッターボートを12人で漕ぐ)に入部。それでも1年のときは多少はしごかれたかな?
教室の中も女子がいないから誰もカッコウはつけないし、気楽なものだった。厳しくない先生の授業のときは、座席の後ろから見ていると、弁当をつまみ食いしている者、小説を読んでいる者、手鏡を隠し見て髪をなでつけている者とか、そんな風景の3年間だった。
それでも年に5回はテストが来る。カンニングは日常茶飯事であった。あるときテスト中に、隣の席の「正虎」と答案用紙を取り替えた。そのときに、音がしたか取り替えるときに落としたかで、目立ってしまった。その時の試験官の先生が、正虎の部活の顧問だったか忘れたが、正虎の横に来て、答案用紙を見て「君の名前は○○というのか?」と。
そのお咎めは覚えていないからそんなにには怒られなかったのだろう。
カンニング方法で最後までバレなかった方法がある。時効なので書くが、当時専門教科の問題は殆どが論文形式で「何何について述べよ」とかの問題が多かった。大体ヤマをはれるが、かといって全部暗記出来ない。メモ用紙のカンニングだと不自然でバレてしまう。事実バレてつかまった者もいた。
誰が考えたかわからないが、6角形の鉛筆の一面ずつに縫い針の先で細かく書く(割り箸に挟んでペンを作った)。六面あるから相当の情報量を書く事ができる。すこし離れるとまず気がつかないし、見るときも鉛筆を見て考えているふりをすれば不自然でない。少し鉛筆を回すと光線の加減で反射してよく見えたものだ。
試験の時には数本の鉛筆を置いて、見終わった鉛筆はわさと芯を折って鉛筆を替える。3年間やったがバレなかった。
書くときはけっこう集中するので、テストの時は見なくても暗記できていたりしていたりものだ。
母親に「鉛筆を買うからお金を」と言うと「またテストか?」と言われたものだ。

明日からは、大震災から3年目となりますので、あの災害を風化させないように、じいさまがあの時、故郷宮古で体験したことを、写真と共に書きたいと思いますので「団塊の世代」はお休みです。

仲間達
全員ではありませんがいいクラスメートでした


漕艇部
部活は一応漕艇部でした


授業中1
授業風景 授業中に写真を撮れるんですからどんな授業か想像がつきます


授業中2
これ、多分授業中かも・・です

孫全員集合で

3月8日 晴
今朝のまだ夜中ですが(3:34)いきなりミシッときました。来たか、と身構えたらそれで終わって一安心でした。
震源地は銚子付近で最大震度2だそうです。その後も同じ場所で震度1がありました。気をつけます。
朝から孫3と5を預かりー。11時頃に孫全員集合となりました。
相変わらず寒いですが、日差しが強かったので、道路を不法占拠して外で遊ぶことができました。
外遊びはみなさん生き生きしますね。それにしても早く暖かくなって欲しいものです。


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孫1~4までの縄跳び大会 孫2が幼稚園で1分以上続けられるようになったそうです


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孫4投げました


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孫5はグローブまでハメて


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次は竹とんぼ


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家の中に入って孫1と3は折り紙


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孫4はじいさまの絵を書いてくれました。右側が孫4で左側がおばあちゃんだそうで、手を繋いでいるところだそうです


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夕方近くになって、孫3とジョギング 走り3.2km 歩き1kmでした


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今日もすこし気になる雲があります




連載シリーズ 「団塊の世代 」はお休みします

春が来ないですねー

天気はいいですが風が冷たく寒いです。それでも昨日よりいいかなと思ってお昼前にジョギングに出発。
昨日の様に手先がかじかむことはなかったのでが、3月に入って一週間も過ぎたのになかなか春が来ないですねー。
今日の走り:8km

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今日も北風が強くて寒いです


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野鳥狙いなのですが何を狙っているのでしょう いつもこの辺に必ずいます


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去年は3月の末に咲き出しました 今年はどうですかね



団塊の世代 13
団塊の中学~高校入学時代(じいさまの場合)
「高校入学」
「団塊の世代」の第一の難関は高校入試であった。当時市内には高校が3校あった。普通高校と水産高校、それに出来たばかりの商業高校だった。
進学率は50%くらい、合格率は50%~70%ほどだったと記憶している。
その頃のじいさまは狭い宮古しか知らなかったからか、特に何かになりたいとかも無かったし漠然と、いずれは東京方面に就職するのだろうなと思っていた程度であった。
金持ちの子供はおさえ止めに、盛岡とか花巻とかの私立高校も二股をかけていたが、金持ちでないじいさまの家庭ではそれは無理である。「落ちたら大工の父親の道具箱を抱えて付いてくるさ」と父親に言われていた。
確実に受かりそうなところは、「普通高校以外だったら」との先生の言葉もあって水産高校の総合水産科を受けて見事?合格した。商業高校はなぜだかいやだった。
めでたく高校に入学したのだが、学年で各科は一クラスずつなのでクラス替えも無く、同じ顔の43人が3年間ずーと一緒に顔を付き合わせてやって行くこととなる。3年間に渡って、いの中の蛙、お山の大将状態である。
またじいさまの出身中学から同じクラスに入学した者が10人もいて、最初の頃は中学の延長みたいなものだった。(出身中学から一人というのも何人かいたが心細かったと思う。はしゃぎ過ぎてすみませんでした。 ゴメンナサイ)
その頃である。義兄(正虎)(以下正虎)との出会いがあったのは。正虎は中学からじいさまの通う中学校に転校して来たが、クラスも一緒になったことも無く話もしたことが無くて高校で初めて口を聞いたと記憶している。
それから半世紀もの長い付き合いになろうとは思ってもいなかった。楽しかった高校生活の、いの中の蛙状態の話は次回です。

宮古水産高校
その頃の宮古水産高校 古い木造校舎で体育館だけが新しかった

52年前の東京タワーからの写真

3月6日 晴
夜中か風が吹き荒れていました。寒いです。
今日は一日春眠かなと、夕方になって少し風が弱まった気がして思い切って飛び出しましました。
手袋はしていましたが手先の冷たいこと。それでも6kmの走りで今日も美味しいチュウハイが飲めました。
雲がちょっとあやしかったので報告しておきます。

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こんな雲が・・・pm5時前


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あやしいですよ


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こちらも


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飛行機雲はすぐにバラけますが・・・数日は気をつけましょう




52年前、修学旅行の時に東京タワーから撮った写真がありました。おもちゃに近いカメラで撮ったのと年数が経っているので画像はわるいですが。
団塊の世代 Ⅻ
団塊の中学生時代(じいさまの場合)
「修学旅行」
じいさまの学年の修学旅行は昭和37年(1962年)であった。今から52年前である。
旅行先は東京、横浜は確かで、日光も入っていたような気がするが確かではない。小遣いの上限は決められていたが忘れてしまった。
交通機関は汽車で(多分蒸気機関車)貸切だったような?。12時間以上もかけての長旅で250人もの大勢の移動だった。
東京の近くに入って、大きな川(多分利根川)の鉄橋を汽車が渡って行った景色が今でも記憶に残っている。それまで一番大きな橋を見たのは閉伊川の宮古橋であった。

東京での見学は国会議事堂、皇居前広場、後楽園遊園地、東京タワー、上野動物園、三越デパート本店等だった。
印象に残っていることだけを(今でも記憶にあることだけ)を断片的になるが列記します。

東京での旅館は本郷だった。朝起きて仲間何人かと外に出てみた。新聞配達の人が自転車で配っていたので「東京タワーはどっちですか」と聞いたら、「あっち」と指差してくれたので、じいさま達はその方向に走り始めたら後ろから「バカ、行けねーよ」と、東京は広いんだなーを実感した。

上野動物園へ行く途中、上野駅から整列して歩いているときに、サングラスをかけたアンちゃんが足元を指差して「落ちてるぞ」と、皆で下を見たら「バーカ嘘だよ」と、東京は怖いところだと思った。

宿泊してしている旅館で夜、東京近郊にいる親戚とか兄姉に面会する時間が設けられていて、何人かは面会に来た人と出かけて行った。じいさまにはそんな親戚もいないし、寂しかったのを記憶している。

国会議事堂を見学に行く時だったと思うが、高速道路みたいな長いトンネルをバスで走って、すごいなと思ったことを今でも覚えているのだが、調べてみたら1962年12月に芝浦~京橋間の約4.5kmが開通とある。あのトンネル道路はどこだったのか?

以上が中学の修学旅行の今でも記憶にある思い出でです。


修学旅行
定番の皇居前の二重橋 これは男子だけです


修学旅行東京タワー1
東京タワーから東京湾方面、高いビルも少ないしすぐそばに海も見えたのですね


修学旅行東京タワー2
こちらも今とは全然違います 「三丁目の夕日」より5、6年後くらいですかね


高下駄
中3の頃のじいさま 高下駄が流行っていた頃でどこへでもこの姿でした

1日雨で

3月5日 雨
朝から雨です。
昼過ぎにまた、浜松様から連絡があって昨日のパソコントラブルと研修の続きです。
今日は浜松様のメールも繋がっているので、遠隔で入って、写真の縮小とそれをメールに複数枚添付の仕方を、世間話しながら気楽にやりました。遠隔はいいですよ。相手のやっていることが(カーソルの動き)わかりますから助言も適切にできます。
1時間半くらいでしょうか。雨降りでジョギングも散歩もできないので、いい暇つぶし作業となりました。



団塊の世代 Ⅺ
団塊の中学生時代(じいさまの場合)
「アンプ」
ステレオは高価でもちろん買えないし、買ってくれとも言えない代物であった。
姉が市内の電気店に働いていたこともあって、レコードプレーヤーを買ってもらった。
音の悪いスピーカー内蔵のが多かったので、ラジオとかに接続して聞くスピーカーの無いプレーヤーだけのものを選んだ。
当初はラジオに繋いで聞いていたがどうしても音が悪い。もう少しいい音で聞きたくてアンプの組立を始めた。
ラジオと違って、真空管式のアンプは比較的簡単に作れた。チューナー部分が無いからである。
比較的大きめのスピーカーを2個、ガラクタラジオから取り出して、スピーカーボックスはみかん箱に丸い穴を空けて、本体はラジオを分解したシャーシーの上に真空管とか電源トランスを載せて、ラジオ雑誌の回路図を見ながらハンダ付けをした。スピーカーも左右が同じものではなかったと思う。
それでもとにかく完成で、市販のステレオに比べれば雲泥の差であったが、普通のラジオに接続して聞くよりは音が良かった。それからは暇さえあれば改造をやっていたもである。
高校を卒業する頃にはかなり音の良いアンプシステムが出来上がっていたと思うが、専門的で技術的な話になるのでアンプの話は終了です。(この頃、回路図を読めたのが現役時代の仕事に多いに役立ちました)
「団塊の世代」から大分それて、趣味の話になりましたが次回からは何を書くか決まっていませんが、中学後半から高校時代の頃の思い出とかをもう少し書こうと思っていますのでよかったら読んでください。

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この頃の安い一般的なスピーカー内蔵アンプ これはちょっと・・・でした じいさまが買ってもらったレコードプレーヤーはネットで探せませんでした

浜松様のパソコントラブルで奮闘

3月4日 晴
気温は低いですが外はいい天気です。
昨日の夕方、浜松様から電話があって、「メールに写真の枚数をたくさん入れて送ったらおかしくなった」と電話がありました。早速Skypeを繋いでリモートで入って治そうとしたら、メールが繋がりません。浜松様の方で受信はできるが送信ができない現象でした。昨日は時間も遅かったので、今日の午後にリトライしました。メールアカウントの設定が壊れていたのですが、大量の大きなファイルをサーバーのほうでシャットアウトしたのでしょう。昨日2時間、今日2時間の奮闘で治りましたが、楽しかったですよ。それにしてもSkypeの無料通話はいいですね。家電とか携帯電話では、電話料金が気になってこうはいかないです。今度は写真の縮小を勉強しましょうと、Skypeを切りました。


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昨日のジョギング 釣り場はさびしいです。今の時期魚がいないのですかね 泥の中に潜っているのですかね


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「ゴミを捨てないでください」の看板の下にわざわざ捨てています 1腹が立ちます




団塊の世代 Ⅹ
団塊の中学生時代(じいさまの場合)
「ラジオからアンプへ」
中学に入ると、ラジオ雑誌を読みあさって、壊れたラジオを集めて最初は真空管式のラジオを組み立てた。その頃一般家庭では真空管を5本使ったスーパー5級ラジオが一般的だった。
しかし、これは難しくて組立を諦めたような気がする。真空管を3本か4本使った比較的簡単なのは出来た。しかしラジオは1回くらいしか作らなかったと思う。
中学2年生頃だったと思うが、家にもテレビが入った。真空管式の14インチでもちろん白黒で、使用しないときは画面に厚い布のカーテンみたいなのがかかっていかにも貴重品という感じだった。
思春期の走りで、家族と一緒にテレビを見るというのが苦手だった。特にメロドラマ的なのはその場にいたたまれなくて、別部屋に逃げて行っていた。
またその頃、ステレオなるものが出現した。中学校の音楽室に置いてあって、先輩が放課後にその頃流行った赤木圭一郎のドーナツ判のレコードをかけて聞いていたが、その音の良さにびっくりしたものだ。特に低音の腹に響く音と、左右から別々の楽器の音が聞こえてくるのが衝撃的だった。
以来、社会人になるまでアンプの組立、改造は続いていくが次回です。


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当時一般的な5球スーパーラジオです


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中身はこんな感じ 5本の真空管が入っています


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少し後のラジオは2スピーカーが流行りましたがステレオじゃありません 真空管も小さくなってミニチュア管といいました


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初めて見たステレオはこんな感じ 中学校の音楽室に置いてありました 低音の響きが衝撃でした 一つ上の先輩が歌謡曲を聞いていました

一日雨降り

3月2日 雨
朝から雨降りで、寝坊をしてぐうたら日です。
昼食に、妻がお雛様のちらし寿司を作ってくれましたが美味しかったです。写真を、と思ったときは食べたあとでした。!残念! 手製のちらし寿司は大好きです。甘辛醤油で煮た油揚げと干し椎茸が特に好きです。
昔、母親が作ってくれたを思い出しました。



団塊の世代 Ⅸ
団塊の少年(後半)時代(じいさまの場合)
「ゲルマニウムラジオ」
じいさまとラジオの原点であるゲルマニウムラジオを手に入れたのは、姉の修学旅行のお土産だった。無理やり頼んで東京のどこかで買って来てもらったように記憶している。
当時、街の電気屋さんにも売っていたがこづかいでは買えなかった。多分5,6百円だったと記憶している。
100v電源のコンセントの片側にアンテナを差して聞くもので、やっと聞こえた。その頃の放送局がどんな状態でどのくらいの電波が出ていたのかもわからない。
とにかく、か細い音をクリスタルイヤホーンというやつで、特に朝布団の中で聞いていたのを覚えている。番組の内容は全然覚えていないが、NHKしかなかっただろうが番組の内容は記憶にない。
少しでも聞こえが良くなるようにと、屋根のひさしの下に、エナメル線を張ってアンテナにしたが結果はそれほどでもなかったような気がする。
小学6年生頃だったと思うが、理科の授業で鉱石ラジオの制作があったが張り切ったのを覚えている。
中学になって、そのへんの壊れた真空管ラジオをばらして、組立直したりアンプに変身させたが続きは次回に書きます。

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1960年のラジオ雑誌「最初のラジオ」の広告です(ヤフオクから転載)一番下の小さなラジオでした(AIWA製だったのを思い出しました)


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この回路でラジオが聞けたんですよ


中1合宿
中1の柔道部の合宿 やっていたのですねー でも強くなれなかったのでしょう 中3のときは辞めていたような


中3頃
中2か3の頃、この頃は少し上のカメラを持っています「鏡の中の自分」

孫全員集合でも雨で・・・

3月1日 曇時々雨
朝9時頃から、孫3と5を預かりー。10時半過ぎに1,2,4とママが合流していつもの土曜日でした。
孫1と孫3も走りたいと言っていましたが、雨模様でダメです。
孫1は3月30日の、地元の市民マラソンの3kmの親子競走にママとエントリーしています。ちなみにじいさまは10kmにエントリーしています。孫1とママも「そろそろ練習しとかなきゃ」と言っていましたが、春休みにもなるので時間はあるでしょう。


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男性軍3人はじいさまの部屋で仲良くドラえもん観賞




団塊の世代 Ⅷ
団塊の少年(後半)時代(じいさまの場合)
「カメラⅡ」
このスタート35カメラを買ってから、最初の頃はカメラ屋さんに、現像焼付を頼んで写真にしてもらっていた。日光写真と変わらないと思っていたのだろうか。最初のときは、撮ったフイルムを明るい室内で広げてしまって父親に呆れられたのは、今でもはっきり脳裏に残っている。なぜか怒られはしなかった。
そのうちに、自分で現像と焼付をやってみたくなった。父親が昔やっていたというので、興味もあったのだろうか協力的だった。
カメラ屋さんで印画紙、現像液と赤い電球を買ってきて準備をした。
押し入れを閉めて、赤い電球を点けて、ベタ焼きだったが、画像が浮かび上がって来たときは感動だった。35mmフイルムだからベタ焼きではどうしても小さいサイズだ。しかし高価な引き伸ばし機は買えないし、雑誌の通信販売で、安いおもちゃの引き伸ばし機を買って使っていた。
しかしそれがどんな形の物だったかは思い出せない。時々押入れの中で赤い電球を点けて、フイルムを開けたり、現像液につけたり楽しんでいたものである。しかしそれも、おもちゃの引き伸ばし機に限界があったのだろうか。中学に入ってからはやらなくなったような気がする。
代わって、中学の頃から、今度はラジオとかアンプに、特に後半はアンプに興味を持って、これは高校卒業して社会人になるまで続いたが、次回で書きます。

カメラについては、子育ての頃はフイルムカメラのバカチョンでしたが、デジタルカメラが出現してからすぐに飛びつき今に至っています。

じいさまが現像、焼き付けした写真
祭り
熊野神社お祭りで神輿が通るところでしょう 恥ずかしくて近くまで行けなかったのか?


前須賀35年
昭和35年頃の前須賀から(失敗作 曇っていて上手く撮れなかったか、現像の失敗)


名称未設定 2
同じ頃の魚市場方面 埋め立て工事中です


普通の写真
小4,5
小学4年生頃 何かの植樹の時でしょうか


小6?
小学6年生? じいさまはビリから二番目(同級生にジョギングやっていると言うと「信じられない」と言われます)足を見て下さい。全員裸足ですよ。それに見物客の多さ、じいさまの学年は5クラスで250人いました。「団塊」そのものです。

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Author:ガンコじい
千葉県佐倉市在住のガンコじいさん

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