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闘病日記3月11日&6年目の3.11

3月11日 晴
闘病日記3月11日
今、午前11時を過ぎたところだが吐き気もムカムカ感も殆どない。すこし便秘気味程度で、朝食も食べられた。このままで経過してくれると嬉しいが、2,3日は静かにしていよう。今週は孫たちの立ち寄りも、家内が断ってくれた。薬のために白血球が少なくなっているので、13日に病院に行って注射だ。

今日は大震災から6年目です。6年も経つと、直接被害を受けた地域以外は、だんだんと風化していきつつあるように思われます。
昨日ネットで見たのですが、去年の福島地震で、東北太平洋沿岸に津波警報が出たときに、震災で大被害を被った石巻の市民でさえ、63%の人が避難しなかったそうです。理由は「来ないだろう」が大半だったそうです。あの警報が、震災直後だったら、100%ちかい人が避難したのではないでしょうか。
あの大震災経験は風化させたくないですね。
あの日は、じいさまの母の49日法要の日で、お昼の会食後に兄妹6人(現在は5人)を含む実家の家族が、実家に集まって、母の引き出しを開けて、写真とか遺品を見ながら思い出話をしていた時の最中で、いきなりの長い長いグラグラグラでした。これは津波が来ると思いました。まさか家が流されようとはその時は思いませんでした。床下浸水くらいの津波は来るだろうから、夕方になって、ほとぼりが冷めたら帰って来ようと、兄妹を車に乗せて、高台に住んでいる正虎氏宅で、お茶でもごちそうになりながら様子を見ようと思い、姉妹5人と義兄を連れて正虎氏宅へ。正虎氏は気持ちよく迎えてくれましたが、カーナビのテレビで、「なあど」に津波が押し寄せている画像を見て、これでは実家はだめだろうと覚悟しました。その晩は動けず、正虎氏に甘えて、6人全員泊めてもらいました。
次の日に早起きして、正虎氏と2人でカメラを抱えて様子を見に行きましたが、変わり果てた生まれ故郷が信じられない光景に変わり果てていました。

1年に1回くらいは、忘れないようにあの惨状を思い出すのも必要かな、と思って、今日はその時の写真を20枚ほどチョイスして掲載しますので、よかったら見て、もう一度思い出してください。

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震災の次の朝の蛸の浜。防波堤とかテトラポットが流されていましたが、思っていたよりがれきも少なくて、海の色はきれいでした。これが昨日暴れまくった海なのです。

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蛸の浜の大橋からの鍬ケ崎、ほぼ全滅で信じられない光景した。

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観光船が町中へ乗り上げていました。家と海が一緒に漂ったのですね。想像すると恐ろしくなります。

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蛸の浜の日和山に車が乗り上げて、海の近くに停めてあった車が流されて来たのでしょう。ここを超えた津波です。信じられません。

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蛸の浜の通り、港の方からここまで津波が来たようで、この道はこれ以上進めません。

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熊野神社側から回ってみようということになって小学校のほうへ、変わり果てた故郷でした。

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何もかもめちゃくちゃでした。

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港町交番、ここの巡査が病人を助けようとして、逃げ遅れて何人か殉職したそうです。

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青いトタン屋根がじいさまの実家です。1階部分は何処へ行ったのか?旅行鞄と喪服も1階に置いたまま避難したので、バックも財布も無くなってしまいました。

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小さい頃から通っていた 七滝湯 のれんが出ていましたから、その時間は営業中だったでしょう。お客さんはどうしたのですかね。

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鍬ケ崎の上町方面も全滅でした。

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昼前に、遠回りをして姉宅に移動しました。午後に宮古の中心部に出てみました。停電で、ローソクだけで営業しているスーパーがありました。冷蔵庫が止まって腐るよりは投げ売りしたほうが店もお客も良かったと思いました。

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末広町を下って行った先の道路にも船が乗り上げて、津波の大きさに驚くばかりでした。

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正面が市役所。車の上に車でした。

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向町方面もここから先は進めません。

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光岸地の近くですが、自衛隊が45号線を復旧しています。対応が早いのには感謝でした。幹線道路だけは早く通すようです。

翌日13日に一番上の姉が住む田老へ、途中の車が行けるところまで行って、そこから2kmくらい徒歩で行ってみました
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田老に住む姉は、この光景を見るまでは、家が流されたことを信じていなかったようです。田老には有名な、高さ10mのスーパー堤防がありましたから。

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10mのスーパー堤防を乗り越えたのですから驚きでした。この田老地区の死者数が多かったと聞いています。堤防があるから安心だと非難しなかった人が多かったのでしょう。姉も49日法要がなかったらこの町でどうなっていたか、亡き母に感謝でした。

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姉が住んでいた家です。やはり1階部分は無くなっていました。元の土地から20mくらい移動していました。屋根のペンキの色で分かったそうです。

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スーパー堤防から青砂里方面です。テレビで何回か放映されたホテルが目立つだけで、民家はどこもぺちゃんこでした。海からストレートで高い波が押し寄せたのでしょう。

今日はすこし暗い記事になりましたが、昨今も熊本の地震とか、岩泉の水害とかの災害が全国各地で起きています。
いつ、どこで災害が起こるかわからない列島となっている感があります。
災害の現状を振り返って見れば、いざという時の皆様の気持ちの備えになるかな、と、書きました。

4年前の今日

3月11日 晴
朝から、震災特集オンリーです。
午後にかつての会社の先輩から電話があり、「4年目だねー、元気?」その後、近況報告を話し合いましたが、3月11日と云う日は、被災者じゃなくても、特別の日なんですね。
今日は、特に書くようなこともなく、書かないつもりでいたのですが、電話のせいもあって、4年前の今日を思い出しながら、書こうと思いますのでよかったら読んでください。

母の49日の法事で、前の日から、被災した、実家に行っていました。
午前中に、お寺とお墓参りを終わらせて、市内で会食しました。酒も飲んで良い気分になっていました。
終わった後、マイクロバスに送ってもらって、実家に帰って、母の引き出しから写真を取り出して、母の思い出に、花が咲いている時でした。
14時46分ですね。グラグラっと、台所の食器棚のコップが落ちて砕ける音が。直感的に「津波が来る」、でした。
来るのは来るけど、せいぜい、床下くらい。「車が塩水をかぶったらいやだな」。チリ地震津波の経験がありましたので(床下浸水でした)、後で思うと、それが甘かったです。
喪服から着替えて、普段着になっていました。免許証も喪服の財布の中で、旅行バックも実家に置いたまま、とにかく、姉弟を乗せて出発しました。
「夕方になれば、津波も落ち着いて帰れるだろう。それまで高台にある、正虎氏の家で、お茶でも飲ませてもらおう」。
軽い気持ちで、正虎氏宅へ伺いました。
正虎氏の庭に着いた時に、カーテレビで、「なあど」の辺りの車が流されている映像が映し出されました。
「実家は終わった」と思いました。
夕方、すこし落ち着いてから、実家の様子を、山の上から見に行きましたが、町は変り果てて、どうなっているのか分かりませんでした。ガレキで、津波が来たところから先へは行けません。いずれせよ、実家は無くなっていました。
兄弟6人が、その夜は、正虎氏のお世話になりました。もちろん電気は付きません。ただ、水道は出ていました。ガスはプロパンで大丈夫です。
正虎氏の奥様は、勤め先から帰って来ません(帰れません)。津波が来るような場所の、勤め先ではなかったので、すこしは安心しましたが、正虎氏にすれば心配だったでしょう。
正虎氏は、我々避難者に、ご飯を炊いたり、停電の中を、近くのスーパーから買い物をして、御馳走してくれました。今でも感謝しています。
後で聞いたのですが、「釜はガス釜だから、電気がなくても大丈夫」と思ったそうですが、制御は電気で使えないんですよね。結局、ガスレンジに鍋をかけて、ご飯を炊いてくれました。
男性3人がいたのですが、「飲もうか」と、酒まで飲みました。震災の夜に、ローソクの灯りで、被災地で、酒を飲んでいたのは、他に何人いるでしょうね。
布団まで敷いてもらって、姉弟全員、暖かい布団に寝ることもできました。
後日ですが、会社の総務とかから、「避難所は寒くないですか?」とか、携帯電話がかかってきましたが、「毎晩酒を飲んでいますよ」とは言えませんでした。家が流された話を聞いているので、避難所と思ったのでしょう。
震災の夜は、正虎氏のおかげで、ひもじい思いをしなくて済みました。
次の日からは、市内の被害を受けなかった、姉宅で、姉弟の合宿生活が数日間に渡って始まりましたが、それはそれで、小さい頃を思い出して、忘れられない思い出になっています。何かの機会に書くかも、です。

以上がじいさまの、4年前の今日でした。

今日の写真は掲載しません。


続 35年前

2月11日 晴
昼間は暖かでしたが、夕方になると冷えてきました。

昨日の続きです。35年前の今日の話になります。
相手の車はトランクが破損しましたが動ける状態でした。こちらの車はラジエーターが逝ってしまって走行不能。
警察に電話したら(携帯が無い時代でしたからどこで電話したのでしょうね)あと1時間くらいかかると言います。
車を置いて、事故の相手の農家へとりあえず入れてもらって囲炉裏で暖をとって警官を待つこと1時間以上。(昼食時間だったようです) 事故処理が終わって、車を5人で近くのガソリンスタンドまで押して移動でした。盛岡の車屋さんを紹介してもらって電話して、その日は車を置いてもらうことにして、凍てつく中をバス停まで5人で徒歩の移動でした。
106急行バスに乗ったら急に空腹を感じました。多分午後3時過ぎになっていたと思います。
じいさまと家内以外は、結婚式場で付いた、まんじゅうとか食べ物をお土産に持っていました。それを出して全員でむさぼりました。前の日は「タンタカターン」だったのに。雲泥の差です。
盛岡からは最終だったか、一つ前の新幹線だったかは忘れましたが、とにかくその日に上野へ着くのに間に合って、食堂車(当時はありました)で上野まで飲みっぱなしだったのを覚えています。
家内が盛岡で、知人とすれ違ったそうですが、後で聞いた話で「とても前の日に結婚式を挙げた人とは思えなかった」と言われたそうです。行く末に不安を感じた顔をしていたことでしょう。
その後車を取りに盛岡まで来たり、何よりも車を貸してくれたU氏に悪いことをしました。車の保険料も高くなったでしょう。
「いいよ、いいよ」と言ってくれましたが、そのU氏も50代の早いうちに亡くなりました。「長野ののんべえ」と共通の友人でした。 合掌。
結婚式と聞くと先ずその事故を思い出します。

今日です
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あやしい雲が気になって、夕方ふるさと広場へカメラを持って出かけました。すこしあやしいかな。

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これは飛行機雲ではないです。

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これはきれいな飛行機雲。

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釣り場にコサギが。

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微妙に距離をとります。(50mくらい)

35年前

2月10日 晴
結婚35年です。
食事をしてきましたが、車で行ったので家内は飲めず、じいさま一人で飲んできました。
これからの人生もよろしくです。健康寿命が長い分には言うこと無いのですが、延命治療はお互いにやめようということで。

35年前の結婚式は、正虎氏と同級生のH氏に司会をやってもらってお世話になったのは知っているのですが、結婚式の中身は殆ど忘れてしまっています。
それより結婚式次の日の出来事は今でも鮮明に覚えています。

「チャンチャカチャーン」の次の日です。
区界の手前(宮古から向かって)で追突してしまいました。
結婚式の次の日、つまり明日になりますが、車で東京へ向かいました。家内と、東京方面から出席してくれた会社の人達5人で出発しました。車は東京の友人から借りた三菱ギャランでした。(じいさまの車はカローラのポンコツだったので借りたのです) 夜中にすこし雪が降ったので、チェーンを巻いて出かけました。宮古を出てしばらくしても雪が無いのでチェーンを外してしまいました。区界峠に近づくにつれて雪が積もっていました。ノーマルタイヤでチェーン無しです。30kmくらいでノロノロ運転でした。区界のドライブインまでこのまま行ってしまおうと思っていたのです。
右側の農家から乗用車が出てきました。忘れ物でもし<たのか不幸にも停まってしまったのです。
追い越そうと思ったら、大型トラックが追い越しをかけてきて右に出れません。ブレーキをかけたらノーブレーキ状態。
「ぶつかるよ」と言いながら追突です。前の車はトランクが開いてしまいました。こちらの車ははもっとひどくてラジエーターから蒸気が噴き出しています。万事休すです。

この話はもう少し続きますので続きは次回に回します。

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刺身もまあまあ。

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じいさまだけ飲んで悪かったですが・・・。

54年前を思い出しました

4月3日 雨
朝から雨で外へも出られず、パソコンと向き合っています。
朝からチリ震源の津波騒動で、各地で数十センチの津波があったようです。
現在では情報網が発達していて、チリで大きな地震があった時から逐一情報が入ってきますから構えることもできます。
1960年5月にチリで巨大地震があって、日本の太平洋側、特に三陸海岸は大きな被害を受けました。
その時じいさまは中学1年か2年生だったと記憶していますが、宮古の実家で経験しています。
朝まだ布団の中にいる時に、魚売りのおばさんが「津波が来るよー」と叫びながら走って行くのが聞こえました。
地震がないのに津波が・・。とにかく学校道具を持って高台へと避難して、そこから港を見てびっくりです。
汐が引いて、今まで見たこともない岩まで露出しています。やがて汐が増えていって、道路の交差点でぶつかり合っていました。じいさまの実家はその時は床下浸水程度でしたが、何の前触れも情報も無く、異常に汐が引いたから津波が来る。今では考えられないことです。
今朝からの津波騒動で54年前を思い出しました。
とにかく被害がなくてよかったです。


「じいさまのマラソン歴-2
ジョギングを続けて良かったことは、まず一番につまずいても転ばなくなったことです。足が自然に前へ出るのでズッコケなくなりました。
以前は、駅の階段を急いで降りてつまずいて転んで整骨院のお世話になったことも二度ほどあります。
それがジョギングをするようになってからは、つまずいて手をつくこともなくなりました。足が出てくれます。
50歳台後半の頃でしょうか。職場で10kmを走る仲間が増えて一度は7人位も走ったことがあります。10kmレースは昼前に終わりますからその後の懇親会が楽しみの一つでした。
また、その時は競馬よろしく出走表を作って、予想等も書き込んで3連単で一口500円で職場で発売しました。1万円以上売れたこともあります。誰も当たりが無いときは懇親会の足しでした。
数回やって誰も当たりはなく、職場へ菓子折り一つで懇親会が豪華だったのを覚えています。
嬉しかったレースは50分を切れた時でした。57歳位の頃だったと思うのですが確か江戸川マラソンだったと思うのですが49分台で走ることが出来ました。
市民ランナーは50分を切るのが一つの目標です。それから3回位49分台で走ることができましたが、佐倉ではとうとう切れませんでした。
佐倉は競技場が高台にあって、ラスト500mがきつい上り坂でフーフーして登りきったところがゴールできついです。
救急車で運ばれたレースもあります。すこし長くなりそうなのでこれは次回に回します。

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2005年の江戸川マラソン この頃がじいさまのマラソン人生の絶頂期かな

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その頃の職場のマラソン仲間

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ガンコじい

Author:ガンコじい
千葉県佐倉市在住のガンコじいさん

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